人生のなかの職業
今回のコラムは管理人である自分自身のこれまでの人生について語ってみたいと思います。
どれだけの方がこのコラムを見てくださるのか、この記事を執筆している時点では分かりませんが、自分の経験が誰かの役に少しでも約に立てられればと思いつつ書いていきたいと思います。
人はそれぞれ、生き方も考え方も違います。
親も育った環境も兄弟も違えば、その人それぞれの人生の歩み方も変わってくるのは当然です。
その長い人生を生きていくうえで、その人の人生に一番影響を与える重要な選択.....私はその人が選択する 職業 だと思います。
もっともこのサイトが転職系の記事を扱うサイトであるので単に職業というくくりで話しを進めているようにも感じられるかも知れませんが、職業が人の人生に与える影響というのはとてつもなく大きいと思うのです。
という訳で、今回のコラムのテーマは、”職業”が人の人生に及ぼす影響について考えてみます。
私の経歴
最初に私の経歴をカンタンに。
とある地方の田舎町に商売人の息子として生まれて、小中学校から工業高校の機械科、情報処理系の専門学校へと進み一見普通の人生かと思いきや、波乱板状な人生を経験してきています。
祖父祖母に特に期待されて育った私は、その期待されていた理由が幼少ながら何となく分かっていました。それは商売人の息子であるという事実。跡継ぎを期待されていた私には自分の将来なんて選べなかったという事実を今でもはっきりと覚えています。
しかし中学~高校と進学するに連れて自分の将来を真剣に考えはじめます。それを見ていた母は私の気持ちを分かっていたのか、「自分のやりたいことをやりなさい」と私に言ってくれました。
工業高校でやりきれなかった事、当時はまだITなどという言葉が独り歩きするもっと前の時代でしたが、どうしても情報処理系の仕事がやりたかった私は親に頭を下げて専門学校に進学させてもらいました。
進学のために故郷を離れ都会へ
結果的に専門学校で役に立った事ってそれと言ってありません。情報処理系の仕事に就くには国家資格である「情報処理 二種」という資格を取る事は必須でした。これを取れなければ専門学校に入った意味は無いとまっでも言われます。親には500万もの金を出させておきながら、何一つ大きな資格も取れませんでした。
しかしながら、親元を離れて都会で生活した2年間の学生生活は勉強の連続でした。
親に負担を掛けないようにアルバイトで月10万ほど稼いてアパート代と水光熱費は自分で稼ぎました。
寿司店でのバイトでした。
その寿司店で指導してくれた親方は自分の人生での恩人でもあります。
その親方から私はよく、
と言われていました。
まだ18~19歳の学生の頃です。
私は当時、その”お坊ちゃん”の意味がよく分かっておらず、ただ単にからかわれているものと深く考えもせずにいました。
無理もありません。専門学校時代の頃の話なので親元から離れて間もない頃、世間の”せ”の字も分からずにアパート代を稼ぐためだけのアルバイトでの寿司店勤務でした。
どうして寿司店だったか?。
1つ目の理由は、寿司屋には出前という仕事があるので、「当時大好きだったバイクを使った仕事がしたい」という単純な理由、もう一つは賄い(まかない)で寿司が毎日食べられるという事。
賞味専門学校に通った2年間お世話になりました。今の世の中では考えられないような、アルバイトとは思えないような体罰や仕打ちも当時は経験しました。
打たれ強さだけは自身があったので絶対に心が折れる事はありませんでしたが、学校のともだちからは、「もっと別の仕事探したほうが良いんじゃないの!?」と何度か心配もされましたが、私自身が親方をリスペクトしていたのでしょう。辞めるつもりはありませんでした。
就職活動
そうこうしているうちに専門学生の2年間はあっという間に過ぎようとしていました。
私はコンピューター系の技術職に就きたくて、わざわざ田舎から情報処理系の専門学校に進学していました。大した資格は取れませんでしたが、それでもなんとか一般の企業に入ろうと必死でした。
私が専門学校2年、19歳の話です。
その年、バブルが崩壊しました。
戦後、これまで上がり続けてきた日本経済が落胆の一途をたどり始めます。
バブル崩壊
バブル崩壊とは
”バブル”とは、株価や地価(不動産)の資産価格が、投機目的でそれらの合理的な評価の基礎となっている、経済成長率や物価上昇率、利子率などの経済の基礎的な諸条件を大幅に上回って、経済が実態以上に泡のように膨れ上がった状態の事。
バブル崩壊とは、日本人がジャパニーズドリーム的な感じて勘違いや妄想に駆られ、実態の無い泡を膨らませた結果、その泡が弾け飛んでしまい一気に不景気へと転落してしまった現象のことを指す。
潰れる事のない銀行や証券会社が次々に倒産し、一般企業も例外ではなく、銀行からの追加融資を受けられずに倒産が相次ぎ、残った企業でさえも生き残りを賭け、人件費削減のために40代50代の高給取り世代がリストラの対象となり、多くの失業者が出た。
当時の高校、大卒の新卒者は一気に就職難に陥った。
専門学校の2年生の時、まさに就職活動の真っ最中のバブル崩壊でした。
私がめざしていたIT系の求人はほぼ "0" でした。
IT系に拘らず一般企業でもPCを導入し始めた頃ですので、担任いわく「どこの企業に行ってもPCは扱うことになるんだからIT系に拘らないでどんどん就活を進めてみろ!」との事で2~3社の面接を受けます。
そのうちの1社では、1次の書類選考と2次の学力試験をパスし、最終選考の役員面接までこぎ着けたものの、「長男である」という理由が原因と思われ不合格の通知を貰う事になります。
「実家が商売をしていた」事、そして「長男であればいずれ実家に帰って跡継ぎをするので会社を辞めるだろう」という判断だったようです。
なんて不理不尽な世の中なんでしょう。
長男は就職出来ない!?という事か?。
落ちてしまったものは仕方がないので、次の就職先を目指して頑張ろうと思った矢先、寿司屋の親方からある提案をされました。
というものでした。
飲食店は甘くないという事も、見習いになれば更にキツい毎日が待っているのは目に見えていましたが、卒業までに残された時間もなく就活するパワーも無かったので、寿司屋の見習いになる決心をしました。
実家も飲食系の仕事をしいていたので、私が一人前の寿司職人になって帰れば実家の業務も拡張することが出来ます。
ただ、専門学校の担任からは、「もうちょっとよく考えろ!」と毎日のように言われました。
専門学校としては卒業生の就職率を上げる事がステータスになるので、学校側が必死になるのも目に見えていましたが、こちらとて必死に生きようともがいていました。
今考えれば、あの時寿司職人の道を選んだ私は間違いだったのか?と思う日々もあるのですが、話しを次に進めます。
辛い見習い時代
20歳で専門学校を卒業して寿司屋の見習いに入りました。
しかしながら、私は当時アパートを借りて一人暮らし、交通の便が悪い場所に住んでいたのでクルマも持っていました。
当時勤めていた寿司屋も個人店なので、それほど多く給料を払えないということで、「日中は別の好きな仕事をしてもいい」をいう事で、朝9時から夕方の4時までは近所のファストフード店でバイトしました。
夕方5時から深夜11~12時までは寿司屋の見習いとして修行をします。
ファストフード店での給与は10万円程度で、同じく寿司屋の方でも10万近くは貰えたので、月収は20万程度ありました。
事実上社会人になったので親の仕送りは当然カットされましたが、20万も手取りがあったので一人暮らしでも十分余裕で生活して行けました。
それから2年が過ぎます。
昼はファストフード店で働いているので、私には朝から夕方に掛けて寿司屋ではどんな仕事をしているのかを知るよしもありません。
寿司屋というのは、朝イチで市場にネタの仕入れに行き、午前中に店の掃除やら仕込みをしてランチ営業を午後2時まで行い、夕方まで休憩に入ります。
その後夕方から深夜12時近くまでの夜間営業に入ります。
私はその夕方から店の手伝いに入るようなものなので、肝心の”仕込み”が覚えられません。仕込みが覚えられなければ魚や貝の捌き方も覚えられません。親方の行為で夜に仕込みを残してもらっていてちょっとづつ教えて貰えたのですが、それは非効率極まりない行為なのです。本来であれば午前中のうちに終わらせなければならない仕事を自分の稼ぎの都合で夜まで手を付けずに居る訳です。
自分でも
という危機感を抱いていたものの、寿司屋一本に踏み切れなかった理由が、その午前中の仕事を辞めて朝から寿司屋で働いたとしても、親方から
と言われていたのです。
見習いとて、社員ではなくただのアルバイトです。
当時住んでいたアパートの家賃が駐車場込で5万円。
水光熱費や携帯代で3万円。
その他年金や保険を払ったら2万円。
食費や小遣いが賄えません。
しかし、親方から
と。
悩んだ挙げ句、ファストフード店を辞める事にしました。
22歳。
万を持して朝から寿司店で働き始めます。
一日12時間近く働いて給料は10万です。休みは週一回。
12時間/1日×26日/月=312時間/月働
100,000円 ÷ 312 =321円/時給
時給に換算すれば、336円 です。
当時の最低賃金にも引っかかりますし、労基法でも引っかかりますね。
今で言うところのブラック企業です(個人事業でしたが)。
ご飯なんてまともに食べられませんでした。
夜は賄いこそ出ましたが、昼ごはんも最初のうちは女将さんが作ってくれていましたが、ある日突然、「あなたに昼ごはんを出してあげる余裕が無いから、これからは昼も自分で何とかしなさい」との事。
給料も相変わらず上がりません。
盆正月に実家に帰っても妹にお年玉もあげられない情けない兄でした。
しかも、自分は本当に寿司職人になりたいのかどうか自問自答するようになります。
葛藤の日々
親方に薦められて寿司屋の見習いになったものの、あまりの待遇の悪さに身も心もボロボロでした。
親方の態度も日に日に厳しくなり、機嫌が悪い日は朝から晩まで一言も口を聞いてくれません。
「パチンコに行ってボロ負けしたな....」と肌で感じるくらい負けた日の私に対しての当たり具合は半端なものではありませんでした。
決して今やらなくても良いような仕事を、真冬の雪がちらつく中、外での調理器具の水洗いは日常茶飯事。39℃の熱があっても店を休ませて貰えませんでした。
これ、平成の世で実際に起こっていた事です。
実際にそんな自分を常連のお客様も見ていたのですが、土地柄なのでしょうか、私を擁護してくれる方も居らずお客様からもイビられる始末。
ここまで来ると、きっと私にも原因があったのでしょう。
「デキない見習いくん」
というレッテルを貼られてしまっていたように思います。
やがて
と確信するまでに、時間はそんなに掛かりませんでした。
見習いに向いていない
そう思う事はカンタンです。
でも、必死で一人前になろうとしていたのか?。
それも疑問です。
親方曰く、
と。
寿司屋で扱う食材は高価なものばかり。当然、店の食材を練習台には出来ないので、自分で魚を買ってこいといいます。
当たり前の事ですが、しかし、当時の私にはそんな金銭的余裕はありません。
朝ごはんと昼ごはんも買えない生活をしていたのです。
とも言われますが、何をするにもお金が無いのです。
かと言って、仕事も教えてくれません。
店の食材は練習台に出来ないのは分かりますが、それではどうやって覚えろというのでしょうか?。
自分では答えを出せませんでした。
そしてある日、2日続けて遅刻をしてしまいました。
何かでつまずくと夜も眠れなくなり、朝が急激に弱くなってしまいます。寝坊でした。
そう言われました。
理不尽にも思いましたが、まず、遅刻をしたのは事実です。言い訳は出来ません。
職人にも向いていない.....自分でもそう思っていました。
結局、その月を最後に寿司屋を辞める事にしました。
学生時代からかれこれ6年間働きてきたので、名残惜しいところもありましたが、もうその環境で働くのは無理だと限界に達してもいました。
親方の顔も見ることが出来なくなっていました。
見習いの辛さから学んだこと
今振り返れば、私は自分から逃げていました。
今まで書いた文章は、当時自分が思っていたことをそのまま書き記しているだけに過ぎません。
今現在の感情論ではありません。
結局、私は最初から板前になるつもりは無かったのだと思います。
当時は専門学校時代に就職を失敗してしまったがために親方の行為に甘えて、寿司屋の見習いに逃げてしまったんだと思います。
本気で一日も早く寿司職人になりたければ、まず昼の仕事を最初からする事なく学生を卒業と同時に寿司屋の見習いに入るべきでした。あの2年間が自分に対しての甘えを作ってしまったのです。
そして、金の掛かるクルマを持たなければ、月10万でも何とか生活していけたと思います。当時はみんなクルマを持っていたので、手放す事が出来なかったのです。
ちょっとの間、クルマに乗れないという辛抱がなぜ出来なかったのか!?。一人前になって自分の店を持ち稼げるようになってからベンツでもBMでも買えばいい話なのです。
寿司屋はよほど変な事をしない限り ”潰れない” 商売として有名です。
将来をしっかりと見据えて、ちょっとの間だけ我慢するという事が何故出来なかったのか?。
いま、ものすごく悔やんでいます。
まとめ
人生は時に、沢山の選択肢から一つを選ばなければならないという残酷な瞬間というものがあります。
そう、例えるのであれば上の画像のようなドアのうちのどれかを開けて進まなければならない時です。
ドアを選ぶのは自分です。
ドアを開ける瞬間というのは、途方も無いほどの孤独感に駆られます。
それは、自分の人生の方向性が180度変わる瞬間なのかも知れません。
でも、その現実からは逃げられません。
誰しもが、そのドアを選択して前に進まなければならない瞬間が、人生のうちに度々訪れます。
もしかしたら、選択を誤るかも知れません。
でも、間違ったって良いじゃないですか!。やり直せは。
何度でもやり直せますよ、人生なんて。
そして、人生の岐路で悩んで悩んだ結果、決めた道というのは、案外後悔しないものです。
悩んだだけの事はあります。
結果的に寿司屋を辞めてしまいまった自分でしたが、得られた事は大きかったと思っています。
寿司屋で辛い経験をしてきた私ですが、あの空白とも言える地獄の6年間は、決して無駄では無かったと。
あの6年間の経験があれば、その後に辛い事があってもそう簡単には挫折しない!という自信も芽生えました。
24歳で寿司屋を辞め、2019年現在は44歳。あれからちょうど20年が経過しました。
そんな私も今では、寿司屋ではないですが会社員を経て独立し、経営者をやっています。
その20年来、一度も親方に会っていません。
近々、会いに行こうかと思っています。
もしかしたら、
と追い返されるかも知れませんが、会いに行ってみようと思います。